ぜんちょうじぶつでん
禅長寺仏殿
天井に何が描かれているでしょうか?
山門をくぐって歩いていくと、スッキリとした禅宗様式らしい仏殿が、木々の間に見えてきます。現在はトタン葺きとなっていますが、以前はかや葺きの屋根だったようです。
禅長寺はいわきの臨済宗妙心寺派でも有名なお寺で、仏殿にもその風格がただよっています。それを表しているのが実は建物内部。
仏殿表側の落ち着いた雰囲気とはガラッと変わり、内部は約13メートルの高さに格子状の天井があり、そこの中央には生き生きとした龍が描かれています。他の部分にもさまざまな絵が描かれていて見ていてあきません。
「これはすごい!」とうなってしまうほど華やかな厨子が内陣正面にあり、細部まで彫り物がなされています。その内陣の扉の上部には、正親町天皇の筆となる「海會」の額がかかげられています。
いたる所に見所があり、外側と内側の雰囲気のギャップに魅了されます。
禅長寺はいわきの臨済宗妙心寺派でも有名なお寺で、仏殿にもその風格がただよっています。それを表しているのが実は建物内部。
仏殿表側の落ち着いた雰囲気とはガラッと変わり、内部は約13メートルの高さに格子状の天井があり、そこの中央には生き生きとした龍が描かれています。他の部分にもさまざまな絵が描かれていて見ていてあきません。
「これはすごい!」とうなってしまうほど華やかな厨子が内陣正面にあり、細部まで彫り物がなされています。その内陣の扉の上部には、正親町天皇の筆となる「海會」の額がかかげられています。
いたる所に見所があり、外側と内側の雰囲気のギャップに魅了されます。
解説
禅長寺は臨済宗に属し、創建は徳一と伝えられている。また中世には鎌倉の建長寺と本末関係があり、禅長寺住職が建長寺の住職になることもあった。
この仏殿は身舎三間四方と、周囲に一間四方を廻らした一重裳階付きの間取となる。斗栱は象木鼻付出組、中備揆束、化粧垂木は二軒半繁垂木である。屋根は寄棟造りで、以前は茅葺きであったが、現在はトタン葺きとなっている。重層部分三間を内陣とし、四周一間通りの裳階部分を外陣とした床は、内外陣とも土間たたきである。建築様式は折衷様であり、全体的に禅宗様仏堂を意識した建物である。
柱は木製礎盤上に立てられた、直径40㎝の粽付円柱12本が重層を通し、約13mの高さに格組天井を張り、それに雲龍などの絵が描かれている。五間の裳階は角柱を礎石上に建て、四周中央にはそれぞれ桟唐戸や引違戸を付け、他の間には花頭窓や板壁が嵌めこんである。裳階部分には繋梁と低い格天井が張ってある。
内部には、正面を飾る華麗な厨子が内陣正面に突出して嵌めこまれている。その上部の唐破風の下には、天正7年(1579)に下賜された「海會」の扁額(県指定)があり、厨子の中には応永17年(1410)の銘をもつ木造観音菩薩半跏像(県指定)が安置されている。
この方仏堂建立の記録は、宝暦7年(1757)の墨書銘が遺されている。磐城地方唯一の禅宗様仏殿建築として価値ある建造物である。
この仏殿は身舎三間四方と、周囲に一間四方を廻らした一重裳階付きの間取となる。斗栱は象木鼻付出組、中備揆束、化粧垂木は二軒半繁垂木である。屋根は寄棟造りで、以前は茅葺きであったが、現在はトタン葺きとなっている。重層部分三間を内陣とし、四周一間通りの裳階部分を外陣とした床は、内外陣とも土間たたきである。建築様式は折衷様であり、全体的に禅宗様仏堂を意識した建物である。
柱は木製礎盤上に立てられた、直径40㎝の粽付円柱12本が重層を通し、約13mの高さに格組天井を張り、それに雲龍などの絵が描かれている。五間の裳階は角柱を礎石上に建て、四周中央にはそれぞれ桟唐戸や引違戸を付け、他の間には花頭窓や板壁が嵌めこんである。裳階部分には繋梁と低い格天井が張ってある。
内部には、正面を飾る華麗な厨子が内陣正面に突出して嵌めこまれている。その上部の唐破風の下には、天正7年(1579)に下賜された「海會」の扁額(県指定)があり、厨子の中には応永17年(1410)の銘をもつ木造観音菩薩半跏像(県指定)が安置されている。
この方仏堂建立の記録は、宝暦7年(1757)の墨書銘が遺されている。磐城地方唯一の禅宗様仏殿建築として価値ある建造物である。
- 指定区分
- 市指定
- 種別
- 有形文化財(建造物)
- 住所
- いわき市小名浜林城大門
- 施設名
- 禅長寺
- 指定年月日
- 昭和52年12月1日