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平城下古地図

透明度

この地図で江戸時代半ばのいわきの姿が分かる?

市指定有形文化財(歴史資料)
江戸時代 ・18世紀
縦 3.85m、横 4.91m

解説

 本図には城内の建造物・石垣・内堀などは一切描かれておらず、わずかに城郭に連なる城門や櫓のみがうかがえる。侍屋敷・寺町・足軽町・職人町・商人町など城下の町割りが克明に記載され、人名も書き込まれている。道路には道幅とともに、木戸の位置も示されており、屋敷地にはそれぞれ間口・奥行の寸法が精細に記されている。作成年代は記されていないが、図中の人名を『内藤候平藩史料』(昭和37年・平市教育委員会刊)に収める事項によって検証すると、次の事柄が知られる。享保19年(1734)12月7日、高月御袋様揚土屋敷御普請出来御移徙とある。これは内藤政栄(露沾)没後、藩主・政樹の母が高月屋敷から揚土の屋敷に移ったことを示しており、地図をみると、揚土の一画に御袋様御屋鋪が確認できる。さらに、元文元年(1736)5月には、穂鷹吉兵衛は定府(江戸詰め)を命ぜられる。地図の揚土長坂に面した屋敷には、穂鷹吉兵衛の名がある。以上のことから、この地図の作成年代は享保19年12月以降元文元年5月以前となり、享保20年ごろと推定することができる。この地図は本来、磐城平城に備えられたものであったが、内藤家から井上家を経て安藤家に移管され、明治四年の廃藩のあと安藤家所有となった。最後の磐城平藩主・信勇のあと安藤家を次いだ信正の第8子信守から、所有者の家に贈られた。このことを示す明治40年8月1日の書状が残っている。

 現在の道路等に合わせて補正した絵図を掲載していますが、補正のチェックを外すと本来の絵図が表示されます。
指定区分
市指定
種別
有形文化財(歴史資料)
指定年月日
昭和43年12月27日

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