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しょうほうたいらじょうえずひかえ

正保平城絵図控

正保平城絵図控は誰の命令によってつくられたのでしょうか?

 江戸幕府は諸大名に命じて、こんなに詳細な地図をつくらせていたのかと驚きます。
 ぜひ、画像を目一杯拡大してみてください。本丸、二ノ丸、三ノ丸、侍町等の位置や広さ、堀の深さや幅などが書き込まれています。道は赤い線で、堀や川などは青い帯で描かれ、川にはきちんと名前も記載されています。脇には山々が連なり、大まかな地形もこの地図があればわかるというもの。
 絵図を見ながら、あれこれ当時を想像するのも楽しそうです。

解説

 江戸幕府は全国を完全に支配した後、諸大名に命じて国別に地図を作製させ提出させた。慶長10年(1605)にも国絵図を作成したと伝えるが、詳細は不明である。現在伝わる国絵図は正保元年(1644)、元禄9年(1696)、天保6年(1835)の3度のものである。更に、国絵図には附録として各郡村の石高を列記した国ごとの郷帳もつくらせた。また、正保期には国絵図のほか、諸国の城郭とその周辺をも描いた城絵図も作製させている。
 この平城郭絵図には作成年号が記載されていないが、新川の記載がないこと、鎌田町、新川町の両町がまだ開かれていないことなどから幕府が正保元年に国絵図と共に命じた城絵図と推定される。『内藤家文書』の「慶安二年御用印判並御意書付之写」によると、「長橋表より桜馬場南之方へ新川為掘可申事」として慶安5年(1652)9月に、いわゆる新川(旧新川)を掘ることを命じている。桜馬場とは本図を見ると現在の鎌田町である。これによっても作成年代が明らかにされ、城下町がまだ完成されていないことが指摘できる。
 本来この絵図は、内藤家・井上家・安藤家と歴代の磐城平藩主に伝承されてきたものと思われるが、明治期に安藤家の家臣である加藤家に渡ったものと思われる。描法は城内を正確に記し、遠方は簡略化されている。狩野派の絵師によるものと思われ、厚手の紙に彩色されている。
指定区分
県指定
種別
重要文化財(歴史資料)
住所
いわき市小島町一丁目
施設名
個人
指定年月日
平成26年9月30日

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