せっぷほうしょうのず
節婦褒賞の図
褒美の3貫文は何に載せられていたでしょうか?
こんな額が神社に奉納されるのかと驚いてしまいます。額には、村の女性が献身的に義父母や夫、息子に尽くし、仕事(農業)にも精を出していることに対して、代官から銭3貫文を褒美として与えられたことが描かれています。3貫文は縁側に置かれた三宝に並べられ、その前で女性が伏している姿が見て取れます。
珍しい奉納額は、村の人々を教育する一面を持っていたと考えられ、当時(江戸時代)の統治の様子を知ることができる、非常に価値のある資料です。
珍しい奉納額は、村の人々を教育する一面を持っていたと考えられ、当時(江戸時代)の統治の様子を知ることができる、非常に価値のある資料です。
解説
本図は樅の1枚板の横額で、諏訪神社に安政6年(1859)3月に奉納されたものである。
嘉永7年(1854)2月に上小川村の百姓利左衛門の女房かめは、当地を支配していた小名浜代官所より呼び出しを受け、「其の方は舅と姑に孝養を尽くし、病身の夫と息子の介抱をし、さらに農業に出精している事は感心である」として、褒美として銭三貫文(銭三千文)を与えられた事柄が描かれている。図額の右の白洲の砂利の上に敷かれた筵に座り平伏している女性がかめであり、左に座り申渡しを読み聞かせているのが当時の小名浜代官設楽八三郎のもとで元締を務めた中澤良左衛門であり、縁側に置かれた三宝に褒美の三貫文が載せられている。図の右上の部分には褒賞の理由を述べた申渡しが記されている。
この図額が作成されたのは褒賞を与えられた5年後であり、代官所での褒賞の様子を描き、申渡し文をそのまま載せるなど、奉納額としては珍しい図柄である。さらに村人が多く参集する神社に掲額されている事などから、本図は民衆教化の面を持ち、江戸時代の民政の一端を知りえる史料である。また、小名浜代官所は慶応4年(1868)の戊辰戦争の戦渦で焼失し記録類も散逸しているので、その欠を補うものとしても価値が高い。
本図の作者は画面左下の記名や落款から、久保田富信だと分かる。同人は幕末から明治期にかけて小川に関わりを持っていたことが確認できるが、その履歴は不明である。
嘉永7年(1854)2月に上小川村の百姓利左衛門の女房かめは、当地を支配していた小名浜代官所より呼び出しを受け、「其の方は舅と姑に孝養を尽くし、病身の夫と息子の介抱をし、さらに農業に出精している事は感心である」として、褒美として銭三貫文(銭三千文)を与えられた事柄が描かれている。図額の右の白洲の砂利の上に敷かれた筵に座り平伏している女性がかめであり、左に座り申渡しを読み聞かせているのが当時の小名浜代官設楽八三郎のもとで元締を務めた中澤良左衛門であり、縁側に置かれた三宝に褒美の三貫文が載せられている。図の右上の部分には褒賞の理由を述べた申渡しが記されている。
この図額が作成されたのは褒賞を与えられた5年後であり、代官所での褒賞の様子を描き、申渡し文をそのまま載せるなど、奉納額としては珍しい図柄である。さらに村人が多く参集する神社に掲額されている事などから、本図は民衆教化の面を持ち、江戸時代の民政の一端を知りえる史料である。また、小名浜代官所は慶応4年(1868)の戊辰戦争の戦渦で焼失し記録類も散逸しているので、その欠を補うものとしても価値が高い。
本図の作者は画面左下の記名や落款から、久保田富信だと分かる。同人は幕末から明治期にかけて小川に関わりを持っていたことが確認できるが、その履歴は不明である。
- 指定区分
- 市指定
- 種別
- 有形文化財(考古資料)
- 住所
- いわき市小川町塩田
- 施設名
- 諏訪神社
- 指定年月日
- 平成18年4月28日