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もくぞうへんがく「ふもんざんぜんちょうごこくぜんじ」・「かいえ」

木造扁額「普門山禅長護国禅寺」・「海会」

この額の文字は書いたのはだれでしょうか?

 木造扁額とは、建物の屋外にある門や入り口、鳥居などの高い場所にかけられる横長の額のことを言い、この木造扁額に書かれた文字は、両方とも正親町天皇の筆によるものです。
 特に「海會」の文字は、ヒノキの板に彫られ、文字にはうるしを塗った後に金箔が押されています。また額のデザインも手が込んでおり、天地に雲竜、左右には雲文が彫られて額そのものに重厚感があります。
 なぜ普門山禅長寺に正親町天皇の額があるかといえば、ここはいわきの臨済宗妙心寺派の中でも有名なお寺で、1579年7月に正親町天皇のための祈願所となりました。そのつながりからこの額がかかげられたのです。
 高い場所にあるので、見学の際は見落とさないようにしたいものです。

解説

 普門山禅長寺は、磐城における臨済宗妙心寺派の名刹で、大同2年(807)徳一の開基と伝えられる。文永年間(1264~75)遠峰禅師が中興し、弘安年中(1278~88)には亀山上皇の勅願所との伝承がある。また天正7年(1579)7月には正親町天皇の勅願所となり、江戸時代は朱印地30石を有し、多くの末寺を擁して、門前に下乗の牌をかかげていた。また中世には、鎌倉の建長寺とは本末関係にあった。
 木造扁額の一つは「普門山 禅長護 国禅寺」と3字ずつ3行に彫られ、額縁は比較的簡素である。もう一つは「海會」と横に檜板に彫られ、文字は漆箔押である。額縁は天地に雲竜、左右は雲文の彫刻があって重厚である。両額の文字はともに正親町天皇の宸筆である。
 正親町天皇宸筆による寺号書の下腸は天正7年(1579)で、禅長寺住持は育芳正頤であった。これは当時の住職の位牌裏にある次の刻銘によって知ることができる。

 当山開基特賜勅願処宸翰護国海会之華額 並諸刹位之徴命者也。惟時天正七稔己卯仲 冬念有八日 見住育芳正頤

 また勅願寺については、正親町天皇の綸旨がある。

 奥州岩崎郡普門山禅長寺事、任先規、可被属諸山之位、殊勅願地之上者、可奉祈叡算万安 宝祚延長者也、仍綸命如件、
 天正七年七月十二日  右中弁(花押)
 前建長寺正頤和尚禅室
指定区分
県指定
種別
重要文化財(工芸品)
住所
いわき市小名浜林城大門
施設名
禅長寺
指定年月日
昭和28年10月1日

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