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もくぞうこうしょうぼさつぞう

木造興正菩薩坐像

実在した人物が菩薩とはどういうことでしょうか?

 柔和な顔と「どうしたんじゃ?」と話しかけられているような、少し前のめりになったお姿に目が離せなくなります。
 この木造興正菩薩坐像は、目には玉眼という水晶の眼がはめられ、より生き生きとした眼差しを演出しています。だから余計に話しかけられているように感じるのかもしれません。両手には払子(ほっす)と呼ばれる法具を持っています。
 「興正菩薩」とは、実在した真言律宗西大寺の中興の祖である叡尊(えいそん)のこと。1301年に後伏見天皇から「興正菩薩」という呼び名の号が贈られたのですが、叡尊が人々の救済に努力してきたことをたたえたのかなと想像されます。
 長福寺は奥州における真言律宗の中心道場であり、興正菩薩をまつるのは信徒の心のより所になったはずです。

解説

 本像は寄木造り、玉眼入り漆塗りの坐像である。頭をやや前に傾け、両袖を左右にひろげ、両手で払子を持ち、額に深い横じわを刻み、こめかみには血管を張り出す。苦難を乗り越えた温和な叡知にたけた高僧を表わす肖像彫刻である。衣文などの刻出には写実的な表現がみられるが、簡略と形式化があらわれており、室町期の作品とみるべきであろう。
 鎌倉の極楽寺には奈良の西大寺(真言律宗総本山)にある興正菩薩坐像の模刻があり、これは叡尊(興正菩薩)の弟子忍性が極楽寺の住持であったことによるものである。
 長福寺は真言律宗の寺で、鍋田三善の撰した『長福寺縁起』によると、元亨2年(1322)小川入道義綱が檀那となり、鎌倉極楽寺の了俊の弟子慈雲が開山したので、同寺とは深いつながりがある寺である。このような関係から、奥州における真言律宗の中心道場であった長福寺に、極楽寺の興正菩薩坐像の模作が安置されたものと考えられる。
 叡尊は真言律宗西大寺中興の祖で、建保5年(1217)東大寺で剃髪後、高野山や醍醐寺で密教を学んだ。このころ律学の衰えたのを嘆き、その復興を志して嘉禎元年(1235)西大寺にうつり、律宗を興し、戒学を盛んにした。朝野の帰依を得て文永・弘安の役には朝命により敵国調伏の祈祷を行った。また非人らに施行をするなど、社会民衆の救済に当たった。正応3年(1290)西大寺で没し、正安3年(1301)に後伏見天皇より興正菩薩の号を贈られた。
指定区分
市指定
種別
有形文化財(彫刻)
住所
いわき市小川町下小川上ノ台
施設名
長福寺
指定年月日
昭和47年10月12日

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