もくぞうへんがく「ぜんしょうざん」「りゅうもんじ」
木造扁額「禅勝山」・「龍門寺」
岩城常隆から寄進された額です。そこにはどんな理由があったのでしょうか?
ヒノキの板に彫られた「禅勝山」という木造扁額は、1588年に岩城常隆によって、家門の繁栄を祈願して、龍門寺に寄進されました。
また、「龍門寺」という木造扁額の文字は古河公方・足利政氏によるもので、この人物を支えたのは岩城氏でした。
どちらの額も長年の風雨にさらされてすごみを帯びている姿にハッとします。
これらはいわき地方を治めた岩城氏に関係する人々が願いや考えがあって寄進したものです。龍門寺に強く心を寄せ、願わくば末長く仏の加護を願おうとする思いを感じずにはいられません。
また、「龍門寺」という木造扁額の文字は古河公方・足利政氏によるもので、この人物を支えたのは岩城氏でした。
どちらの額も長年の風雨にさらされてすごみを帯びている姿にハッとします。
これらはいわき地方を治めた岩城氏に関係する人々が願いや考えがあって寄進したものです。龍門寺に強く心を寄せ、願わくば末長く仏の加護を願おうとする思いを感じずにはいられません。
解説
「禅勝山」は山号額で、檜板に隷書体で陰刻され、中門に掲げられていたという。現在は本堂内に保管されており、正面は黒漆仕上げ、裏面に次のような陰刻銘がある。
当山九代且陽清寅大和尚寄附之
大檀那平常隆廿一歳奕葉
連枝億千歳
干時天正十六著雍
困敦八月上浣日(花押)
天正16年(1588)戊(著雍)子(困敦)8月上旬(上浣日)に、岩城常隆が家門の繁栄を祈願して寄進したものである。連枝億千歳(代々木の枝が連なるようにながく繁栄が続くこと)を願って、菩提寺に寄進した背景には、常隆の病弱を裏付ける証拠となる。天正18年(1590)8月、小田原参陣の帰途、相州鎌倉郡星谷(神奈川県座間市)で病没した常隆の死没年令を確定する資料である。
また「龍門寺」扁額は、楼門(市指定)正面に掲げてある。檜板に陰刻し、胡粉と朱色が残っているが、長年の風化でいたみが著しい。この扁額は、寺伝『自他門由緒記』に「文亀の間に当りて、左馬頭源朝臣政氏額を書して龍門寺三代聞湲に賜う、すなわち山門に掛く、政氏公は尊氏将軍の四男基氏六代の後胤なり」とあるように、古河公方・足利政氏(1466~1531)の筆である。政氏は岩城盛隆・由隆の援助を得て、権力を保持していた公方である。
当山九代且陽清寅大和尚寄附之
大檀那平常隆廿一歳奕葉
連枝億千歳
干時天正十六著雍
困敦八月上浣日(花押)
天正16年(1588)戊(著雍)子(困敦)8月上旬(上浣日)に、岩城常隆が家門の繁栄を祈願して寄進したものである。連枝億千歳(代々木の枝が連なるようにながく繁栄が続くこと)を願って、菩提寺に寄進した背景には、常隆の病弱を裏付ける証拠となる。天正18年(1590)8月、小田原参陣の帰途、相州鎌倉郡星谷(神奈川県座間市)で病没した常隆の死没年令を確定する資料である。
また「龍門寺」扁額は、楼門(市指定)正面に掲げてある。檜板に陰刻し、胡粉と朱色が残っているが、長年の風化でいたみが著しい。この扁額は、寺伝『自他門由緒記』に「文亀の間に当りて、左馬頭源朝臣政氏額を書して龍門寺三代聞湲に賜う、すなわち山門に掛く、政氏公は尊氏将軍の四男基氏六代の後胤なり」とあるように、古河公方・足利政氏(1466~1531)の筆である。政氏は岩城盛隆・由隆の援助を得て、権力を保持していた公方である。
- 指定区分
- 市指定
- 種別
- 有形文化財(工芸品)
- 住所
- いわき市平下荒川諏訪下
- 施設名
- 龍門寺
- 指定年月日
- 平成元年3月25日