とよとみひでよしきんせいじょう
豊臣秀吉禁制状
いつの時代の書き方を受け継いだものでしょうか?
禁制状と言われると、少しピリッとしたものを感じてしまいます。禁制状は、掟や禁令(ある行為を禁止する)を広く庶民に知らしめる内容を紙に書いた文書で、室町時代以降に決まった形式になりました。内容は3ヶ条を基本としています。たしかに一度にたくさんのことを伝えるよりは3つとしたほうが、浸透しやすい気がします。
この禁制状は、宇都宮城にいた秀吉から、岩城家の人々が対面で与えられたものと考えられます。
この禁制状は、宇都宮城にいた秀吉から、岩城家の人々が対面で与えられたものと考えられます。
解説
禁制とは本来は、掟や禁令などを広く一般庶民に告知させるため、駒形の板に書き掲示した高札の一種で、主に簡単な命令を記したものをいう。特に、禁制と頭初に書くことから付けられた名称で、板から料紙に記されたものが禁制状である。室町時代以降になると、その型が整えられ定型化していった。まず「禁制」と書き、その下に充所を記し、次に禁令の要旨を箇条書にあげ、終わりに違犯者に対する処断文言で結ぶ形式である。
室町幕府の出した禁制は三ヶ条を基本とし、箇条が多くなる場合は「付」として扱い、あくまでも三ヶ条にこだわっている。この豊臣秀吉禁制状も、こうした室町幕府の禁制を踏襲した文面によって綴られている。
天正18年(1590)7月にこの禁制状が出された背景であるが、この年、豊臣秀吉は小田原城を攻め、北条氏政・氏直親子を滅亡させ全国統一を図った。その後、7月20日、宇都宮城に入り、東北・北関東の諸大名を集め味方する者には領地の安堵状等を与えた。この重大な時期に、岩城家は当主常隆が病没し、その後継者をめぐり家臣団の中で葛藤が生じたが、結局佐竹義重の三男能化丸を養子に迎えた。よって、岩城家の重臣達は能化丸を伴い秀吉に宇都宮城にて対面、安堵状と禁制状を与えられた。
現在、安堵状は伝えられていないが、この禁制状は岩城家の一門で上遠野城主であった上遠野家に伝世したものである。
室町幕府の出した禁制は三ヶ条を基本とし、箇条が多くなる場合は「付」として扱い、あくまでも三ヶ条にこだわっている。この豊臣秀吉禁制状も、こうした室町幕府の禁制を踏襲した文面によって綴られている。
天正18年(1590)7月にこの禁制状が出された背景であるが、この年、豊臣秀吉は小田原城を攻め、北条氏政・氏直親子を滅亡させ全国統一を図った。その後、7月20日、宇都宮城に入り、東北・北関東の諸大名を集め味方する者には領地の安堵状等を与えた。この重大な時期に、岩城家は当主常隆が病没し、その後継者をめぐり家臣団の中で葛藤が生じたが、結局佐竹義重の三男能化丸を養子に迎えた。よって、岩城家の重臣達は能化丸を伴い秀吉に宇都宮城にて対面、安堵状と禁制状を与えられた。
現在、安堵状は伝えられていないが、この禁制状は岩城家の一門で上遠野城主であった上遠野家に伝世したものである。
- 指定区分
- 市指定
- 種別
- 有形文化財(歴史資料)
- 住所
- いわき市平堂根町4−4
- 施設名
- いわき市立美術館
- 指定年月日
- 平成2年3月27日