facebook X instagram Line
あんどうのぶともがぞう

安藤信友画像

膝の前には、何が置かれているでしょうか?

 卵形の柔和な顔に、まるでアイラインを入れたような涼しげな目元。一点を見つめる眼もどことなく優しさが漂います。画像を拡大してみると、目尻の皺やおでこの皺もみることができ、写実的に描かれている安藤家4代当主に親しみを覚えます。
 装束も光沢と立体感が出て美しく、太刀や膝の前に置かれた檜扇(ひおうぎ)も装束をつけた時の形式を表現しています。色の濃淡や組み合わせなど、見どころが多い肖像画です。

解説

 この画像は、安藤家第4代当主・安藤信友の肖像画である。画面には賛や裏書等はない。全体に紙魚、折れが目立ち、信友の着する装束の袍(上衣)や太刀等に顔料の剥落が認められるが、保存状態としては比較的良好である。冠を被り、袍を着し、袴は指貫を用い、太刀を佩き、膝前に檜扇を置いて、衣冠姿の肖像画の典型的な形式を示している。重長像に比べると、面貌はより写実的に描かれ、装束にも適度な隈取が施されており、さらに袍や太刀なども胡粉を盛り上げ、立体的に表現しようとする工夫が見られる。江戸時代・享保年間の作で、狩野派の筆とみられる。
 信友は寛文11年(1671)、高崎城主・安藤重博の子に生まれた。貞享2年(1685)に従五位下長門守に叙任し、元禄11年(1698)父の遺領を継ぎ、備中国(岡山県)松山城主となり6万5千石を領した。宝永元年(1704)奏者番をつとめたのち寺社奉行となる。正徳元年(1711)美濃国(岐阜県)加納に移される。享保3年(1718)大阪城代となり、同七年老中となり、「享保の改革」を行った8代将軍吉宗を補佐した。享保17年(1732)に没し、江戸麹町・栖岸院に葬られた。法名は、龍徳院殿賢誉秀儀濬哲大居士である。
 冠里と号して俳諧をよくした信友は、即吟の上手として知られた。冠里の句として知られる「雪の日やあれも人の子樽拾い」は、情感あふれる句として当時の江戸庶民の共感を呼んだ。
指定区分
市指定
種別
有形文化財(考古資料)
住所
いわき市平字古鍛冶町
施設名
良善寺
指定年月日
平成13年4月27日

その他の高精細コンテンツ

TOP