きゅうはがけじゅうたく
旧芳賀家住宅
南側縁が広く作られているのはどうしてでしょうか?
自宅を開放して寺子屋学校を開き、子どもたちに教育の場を提供していたというこの住宅は、江戸時代末期頃から19世紀の中頃に作られたとされます。
住人は今でいう村長を務めた農家で、間取りは農作業がしやすいように作られ、南縁側は5間半間口(およそ9メートル×90センチ)もあります。時には寺子屋に通う子どもたちの遊び場にもなっていたかもしれません。
当時の農家の暮らしのイメージができる貴重な建物です。
住人は今でいう村長を務めた農家で、間取りは農作業がしやすいように作られ、南縁側は5間半間口(およそ9メートル×90センチ)もあります。時には寺子屋に通う子どもたちの遊び場にもなっていたかもしれません。
当時の農家の暮らしのイメージができる貴重な建物です。
解説
この住宅は、もとは田人町旅人字唐沢地内にあって庄屋をつとめた農家であった。創建年代は明らかではないが、万延元年(1860)の荷路夫川の氾濫時の水位を恵比須柱に刻んでいることから、それ以前の建築であることは確実である。芳賀家の家系図や口伝、または郷土誌などから江戸時代末期頃、19世紀中葉ごろの建築と推定される。
建物は直屋平入りの形態で、北側に2尺の下屋をおろし、南東面に3尺せがい造りに吹き寄せ化粧小舞付の軒が出る。
土台は無く礎石に柱建てで、土間と広間の間口が三間とほぼ等しい。これは、磐城における基準的な作業スペースの割合である。それから南側縁が五間半間口と広いのは農作業のためであり、また、広間縁仕切りの6尺間引き違い板戸には古様が見える。改修の多い土間回りも、台所や風呂、便所が下屋として、本体の外に増築されていたため主体部の変格は少なく、創建時の部材が多く残っているが、部分的な腐朽は著しかった。
芳賀家住宅は、棚倉藩時代の重要な道路沿いに位置した建物で、農業を営み庄屋をつとめ、比較的安定した生活基盤を持っており、芳賀家2代目の金之丞は教育の重要性を認識し、当時自宅を開放して寺子屋学校を開き近隣の子弟の教育に当たっていたという。
この住宅は、江戸時代末期の農家の典型的平面形があり、随所に当時の生活がにじみ出ている貴重な建物である。
建物は直屋平入りの形態で、北側に2尺の下屋をおろし、南東面に3尺せがい造りに吹き寄せ化粧小舞付の軒が出る。
土台は無く礎石に柱建てで、土間と広間の間口が三間とほぼ等しい。これは、磐城における基準的な作業スペースの割合である。それから南側縁が五間半間口と広いのは農作業のためであり、また、広間縁仕切りの6尺間引き違い板戸には古様が見える。改修の多い土間回りも、台所や風呂、便所が下屋として、本体の外に増築されていたため主体部の変格は少なく、創建時の部材が多く残っているが、部分的な腐朽は著しかった。
芳賀家住宅は、棚倉藩時代の重要な道路沿いに位置した建物で、農業を営み庄屋をつとめ、比較的安定した生活基盤を持っており、芳賀家2代目の金之丞は教育の重要性を認識し、当時自宅を開放して寺子屋学校を開き近隣の子弟の教育に当たっていたという。
この住宅は、江戸時代末期の農家の典型的平面形があり、随所に当時の生活がにじみ出ている貴重な建物である。
- 指定区分
- 市指定
- 種別
- 有形文化財(建造物)
- 住所
- いわき市鹿島町下矢田散野14-16
- 施設名
- いわき市暮らしの伝承郷
- 指定年月日
- 平成9年5月13日