ふもんじかんのんどう
普門寺観音堂
仁王像は元はどこにあったものでしょうか?
明治期の記録を元に改修をしたお堂に入ると、まず目に飛び込んでくるのは仁王像。かつて、飯野八幡宮楼門に置かれていたものです。普門寺を開いた痴鈍空性は、八幡宮宮司飯野家の祖、伊賀光宗の4男と言われていて、その縁からかもしれません。
仁王像の後ろ、内外陣の境に建てられた来迎柱には箔押しの装飾がなされ、横木を支える赤い蟇股(かえるまた)の中央には白い牡丹が彫刻されるなど、創建時はさぞや豪華な雰囲気だったことでしょう。
仁王像の後ろ、内外陣の境に建てられた来迎柱には箔押しの装飾がなされ、横木を支える赤い蟇股(かえるまた)の中央には白い牡丹が彫刻されるなど、創建時はさぞや豪華な雰囲気だったことでしょう。
解説
この建物は、いわき市平字北目町の普門寺境内にあり、磐城三十三観音の一番札所である。
三間四面堂、一間流れ向拝付寄棟造り桟瓦葺であったが、平成23年の東日本大震災の影響を受けたため、明治期の木端葺の記録をもとに、屋根を木端葺様銅板葺として構造補強を図り、平成27年に改修した。内外陣境の来迎柱の箔押し装飾や虹梁及び斗栱、特に蟇股の牡丹の折枝彫刻に優れた技量がうかがえる。その左右の欄間彫刻は、欠損が多いが右に太陽、左に月と古様な彫刻があり彩色は消えているが、創建時の華やかさが偲ばれる造りである。内陣の宮殿も金箔、彩色が施され、また小壁板の飛天像は現在後面左右のみであるが、移転または改築等により他の面の飛天は失われたものと考えられる。
堂の正面に掲げられている扁額は、弟文山とともに内藤家に仕えた書家佐々木玄龍の書である。隷書体で書かれた「観音堂」の文字が、欅材の額に彫られ奉納されたのは、元禄13年(1700)10月のことである。
飯野八幡宮古絵図によれば、巡礼観音と記された堂宇が見られるが、当観音堂とのつながりは不詳である。普門寺の開山痴鈍空性は、八幡宮宮司飯野家の祖伊賀光宗の4男といわれ、鎌倉建長寺開山蘭渓道隆の法嗣となり、入唐して研鑽し帰朝後、建長寺8世の住持となり宗門を大いに広めた。その後、岩城の地に移り、長興寺・普門寺・霊山寺・禅福寺の4カ寺を開山し、野田の禅福寺にて正安3年(1301)入寂している。
現在堂内に安置されている仁王像は、かつて飯野八幡宮楼門に置かれたものである。
三間四面堂、一間流れ向拝付寄棟造り桟瓦葺であったが、平成23年の東日本大震災の影響を受けたため、明治期の木端葺の記録をもとに、屋根を木端葺様銅板葺として構造補強を図り、平成27年に改修した。内外陣境の来迎柱の箔押し装飾や虹梁及び斗栱、特に蟇股の牡丹の折枝彫刻に優れた技量がうかがえる。その左右の欄間彫刻は、欠損が多いが右に太陽、左に月と古様な彫刻があり彩色は消えているが、創建時の華やかさが偲ばれる造りである。内陣の宮殿も金箔、彩色が施され、また小壁板の飛天像は現在後面左右のみであるが、移転または改築等により他の面の飛天は失われたものと考えられる。
堂の正面に掲げられている扁額は、弟文山とともに内藤家に仕えた書家佐々木玄龍の書である。隷書体で書かれた「観音堂」の文字が、欅材の額に彫られ奉納されたのは、元禄13年(1700)10月のことである。
飯野八幡宮古絵図によれば、巡礼観音と記された堂宇が見られるが、当観音堂とのつながりは不詳である。普門寺の開山痴鈍空性は、八幡宮宮司飯野家の祖伊賀光宗の4男といわれ、鎌倉建長寺開山蘭渓道隆の法嗣となり、入唐して研鑽し帰朝後、建長寺8世の住持となり宗門を大いに広めた。その後、岩城の地に移り、長興寺・普門寺・霊山寺・禅福寺の4カ寺を開山し、野田の禅福寺にて正安3年(1301)入寂している。
現在堂内に安置されている仁王像は、かつて飯野八幡宮楼門に置かれたものである。
- 指定区分
- 市指定
- 種別
- 有形文化財(建造物)
- 住所
- いわき市北目町
- 施設名
- 普門寺
- 指定年月日
- 平成25年4月24日